High on Life

NO BIKE NO LIFE

4月21日金曜 先週末からの雨模様と共に体調優れず

週末からお天気と私の体調はずっとぐずついている。

私の風邪は妻にも遷移し、まるで主人であるかの如くこの家に座し続けている。

全く鬱陶しい毎日。

今日は午前中在宅勤務として、妻の様子を見たり洗濯、家事したりで過ごし、午後は年休とした。

熱が下がったのに頭痛や咳が残るのは、ひょっとしたら花粉の影響ではないのか?と、強い風に乗って公園から盛んに飛んでくる黄色い飛翔物を見ながら考えている。それにしても屋根がえらいことになっとる><

 

このようなタイミングで、『火宅の人』から『檀』への私小説繋がり二種読了。最後は病病介護状態になる壇夫婦とシンクロするように、まさに我が家も病病介護の今週だった。

頭痛い><。

元々興味本位で読み始めたものであるが、『火宅の人』下巻後半から明らかに読み方が変わり、事実の重さ、人間の罪深さ、愛情の深さにどっぷりはまって、結局は檀一雄沢木耕太郎の二人が書いた素晴らしい作品を続けて読んだだけ、というのが正直な感想。それ以上書こうとすると一大論文になりそうなのでやめておく。

 

『火宅の人』は読んで字の如く、朗々と檀一雄という人間の振る舞いが言い訳がましく語られていく・・・、ように見せかけて、読者自身が隠し持つ本能にもいつの間にかシンクロし始め、誰のことを読んでいるのか瞬間的に分からなくなっている、という恐ろしくも奇妙な体験をした。何が書かれているかは分かるけど、自分はこの内容をどう飲み込めば良いのか、こういう類の小説読むの初めてなので戸惑った。突き放しきれないのだ。下巻後半の「お葉さん」の段になって、人間という生き物に対する憎しみと愛情が重なり合ったような非常に重苦しい感情が押し寄せ、胸が押し潰されそうになって初めて、この『火宅の人』の真髄を見たような気がした。最初は、電車の中で読む類の小説ではないなと、ちょっと斜め読みしていたものだが、気がついたらどハマりしていた。内容はドロドロなのだが、文体が小気味よく読み進めることに苦痛を感じない不思議な文章だった。

 

『壇』は誰が書いているのか分からない・・・、というくらい沢木色は脱色されている。表紙を見ずに読み進めれば、『火宅の人』三巻目と言われても分からない。これには驚いた。インタビューに基づく作品はいくつも読んだ。いずれも高揚感あふれる沢木節は共通で、読者の肝を揺さぶりながら対象へのめり込ませていく。だから背後には必ず沢木耕太郎の影が良い意味でちらついている。『天路の旅人』だってあれだけアクの強い対象を書いていながら読書感は100%沢木節だ。しかしこの『檀』にはそれが120%無い。どこで種明かしが来るのか楽しみだったが、とうとう最後までそれは無かった。実はこういう風に書きました、というのが最後にあって、インタビューを受け続けた檀夫人の沢木評などもあって、なるほどと思わせてくれるんだろうという期待は完全に裏切られ、目次も無いし、沢木による後書きすら無いのである。これも別の沢木流なのかもしれない。まさに1本取られましたという感じ。

 

本当に面白い読書だった。しんどい内容だったが読み通せたのは、檀一雄沢木耕太郎の才能あってのこと。ありがとうございました。とても勉強になりました。いくつかの意味で。

 

 

庭の小手毬が方々で可愛らしく咲き出した。駐車場の後方のあまり人目に触れない植栽帯にもご覧のような状態で。なんか、ジムニーと小手毬とアオダモと舗装が良い感じにマッチしている、と思うのは親バカそのものだな。