High on Life

NO BIKE NO LIFE

またしても試練 ツール・ド・おきなわ 市民レース100kmオーバー40玉砕記録


公式記録:3h36m44s 27.68km/h 126位/完走270名
STRAVA:3h28m58s 30.7km/h 1,565m↑
https://www.strava.com/activities/774103691/segments/18940736423

■パニックと失望の10キロ
通称”学校坂”を登り終えた40km地点、またしてもチェーンは落ちた。登りを終えフロントをアウターに入れようとした瞬間に、チェーンは何故か内側に落ちた。辺戸岬の登り返しを終えた直後と全く同じ現象。学校坂を終えればあとは自分向けのアップダウン区間が続く。普久川で遅れた先頭に本気で追い付くつもりだった。無理といえば無理だけど、そういう気持ちで行くつもりだった。
EMONDA SLRの特徴である大きなハンガー部とインナーギアの間に落ちたチェーンは、降りて手を使わないと戻せない。降りて手で上げようとするが、挟まったチェーンはなかなか浮いてくれない。パニックになり、クランクを正回転させて事を悪化させ、挙句の果てにギアの刃先で指を切ったらしくチェーンの上に血が滴り落ちた。
果てしない時間、多くの選手が駆け抜けて行く中、2年連続の未完走を覚悟した。
一度覚悟が決まると気持ちが落ち着いた。チェーンを逆回転で入れ直し、ゆっくりバイクにまたがり走り出した。と、今度はアウターリングの上でチェーンが滑り出した。1回転する内に1回、チェーンがリングから外れようとする。また止まり、アウターリングが歪んでいないか、あるいはチェーンピンがズレた箇所がないか観察した。わからない。立ち尽くした。万事休す。関門でのタイムアウトどころか、この先走ることすらできないのか。腰を下ろし、こちらを一瞥して走り過ぎる選手達を何の感情もなく見ていた。
ここで回収車を待っているより、次の関門まで行ってへたり込んでいる方が確実、そう思って歩き出した。下り坂はバイクにまたがった。平坦か上りになると何度か降りてチェーンやリアメカを触ってみた。いつしかチェーンの滑りはフロントからリアに移行していた。トルクを掛けるとスプロケの上でチェーンがロー側へ滑る。押して歩きながら何度もリアメカの修復を試みたがダメだった。歩いては止まり、触っては諦め、下りではバイクにまたがる、を繰り返した。
高江まで来た。長い下りでは、跨っているだけでも追い越していく選手達との速度差が少なくなる。大きな集団がやってきた。ゼッケンをみると140キロの集団だ。30人はいそうな隊列が横を通り過ぎるので、風圧に乗ってこちらの速度も自然と上がる。GARMINを見るとここまで50キロほど走って来ていた。宮城の関門までは小さな登りを含みながらも全体に下っていく。この集団のお尻で関門まで行けないかと考えた。うまくいけばそこでリタイアしようと決めた。



■失望と開き直りの境界線
結果から言うと、この140キロのグルペットが、安波から高江の厚さ10キロにも渡るブラックボックスから自分を救い出してくれた。クランク3回転に1回、スプロケの上でチェーンは滑り続け、その度に体が左に傾く変な格好で集団にしがみ付いた。使いたいギアの一枚上にチェーンを一旦入れるために小まめにシフトチェンジし集団から遅れないよう注意した。右脚と右手が異様に疲れたが、一度切り替わった気持ちは信じられないほど清々しいものだった。”ガチャガチャうるさくて申し訳ありません!” そう言うながらローテーションもこなした。中には、”ちっ、遅れた100キロか・・・” と明らさまに嫌がる人もいたが、1188番の白いジャージの方が、”大丈夫大丈夫!、このままあと50キロ何とかなるって!” そう言って励ましてくれた。”でもいつチェーン切れるか分からないんで、そん時はできるだけ迷惑にならないよう下がります!” そう言うと、”持つ持つぅそんなのー、大丈夫大丈夫っ!” そう言われた瞬間、溜まった感情が吹き出して涙腺が切れた。危うく前が見えなくなった。



■クルージング
宮城を過ぎ、小さなアップダウンをこなすと東村の平坦、慶佐次のアップダウン、有銘の平坦と進む。心も体も回復して楽々と進んでいく。朝の食べ過ぎで、奥の登りで破裂しそうだった胃もこなれてきて快調。エネルギーが上手く循環している。140キロの皆さんはさすがにお疲れの様子で、登りが辛そうだ。少しずつ人数を減らしていく。天仁屋の2段登りでは先頭で登っていると後ろに数人しか居なくなった。少しでも多くの人数で楽してゴールに向かいたいため、下りで緩め安部で集団を再形成した。カヌチャのアップダウンでも同じようなことを繰り返したが、大浦湾沿いの平坦でついに駆け引きが始まった。羽地を前に突如ローテーションが機能しなくなった。



■羽地での涙、川上での安堵
こんな後ろの位置で駆け引きすんのかこいつら?馬鹿馬鹿しい。全員で1秒でも速くゴールに向かおうという気にならんのかこいつら?怒りを覚えたが辛いのは確かだろうとも思えた。自分よりはるかに辛い行程をこの人達はこなして来ている。もう後ろを見るのはやめた。幸い4人程でローテできている。集団先頭付近で大浦を右折。いよいよ羽地ダムへの登り。遠くに絶望的景観を見せるあのブリッジ。でも去年とは違う。ちゃんと登れるはずだ。先頭4人パックで淡々と登り始める。中腹まで来て振り返るともう誰もいない。あの1188番の方もいない。申し訳ない。
声援が増えてきた。番越トンネルに入った途端また前が見えなくなった。居るはずもない誰かがトンネルの出口で待っているような気がした。その人に申し訳ないと思った。今年の脚なら、本当に待っていてもらっても恥ずかしくない位置で来れたかも知れないと思うと、我慢できなくなった。”くっそー、くっそー、くっそーっ” と口走りながら泣いていた。トンネルを出て右折してもまだ叫んでいた。
今年は後ろに広報カーはいない。沿道の声援を素直に嬉しいと感じた。去年は止まりそうになってクリアしたアップダウンをこなし、またきな大橋、タクジトンネルを過ぎ、下りながら何人も抜いた。川上関門への直線で小さな集団を吸収し、58号に出た時には10人くらいの集団になった。



■イオン坂の駆け引きと初めてのゴール
ここからのローテは速い。皆ゴールに向けて気持ちが一致しているかに思えた。しかし、イオン坂が見えてくるとまた引かない人が出てきた。またかよ・・・、あんたのその順位に何の意味があるんだよ・・・、となぜか頭の中では標準語で悪態をつき、速度を維持する程度のダンシングで前に出た。でもやっぱりみんな辛いんだと素直に悟った。振り向くとみな顔を歪めてダンシングしていた。
下りに入るともうローテは崩壊していた。一旦先頭に出ると合図しない限り誰も前に出ないので、みなが前に出るのを嫌がった。自分は1秒でも速くゴールしたいので、自然な流れに任せて淡々と回した。左に大きく曲がり少し右に戻ってゴールのアーチが見えた。スプリントが始まった。やんのかやっぱり、そらやるわなぁ、今度は関西弁で毒吐き自分も腰を上げた。でもスプリントなんかやってないからよく判らない。ただグラグラと左右に揺れながら走ってるだけだったけど、集団の中盤でゴールした。
特に大きな感慨は無かった。悔しさは羽地で吐き出してきた。また1年頑張ろうと決めた。







■やってはいけない計算
冒頭に記した公式記録とSTRAVAのデータ、その差は8分弱。これが辺戸岬及び安波〜高江間で停止していた時間の合計。
安波〜高江の約10キロの間に費やした時間、つまりは歩いたり、トボトボ走ったり、跨って下ったりしてGARMINが動いていた時間と、去年の死に体で走った同区間データとの差が10分。そして、その去年の時間に対する今年の状態からの予測が少なくともマイナス2分。これで3時間16分台。さらに後半57キロを正常なバイクでそれなりの位置で走ったらあと何分・・・・・?それはもうやめておく。別のトラブルに遭っていたかも知れないし。3時間16分までは練習の成果があったとして、心を鎮めるために計算することを許してもらいたい。



■出だしで既に躓いていた
ちなみに出だしはどうだったか。

"I Know I Can"、"I Know I Can"、"I Know I Can"、"I Know I Can"、"I Know I Can"・・・ 最初は胸の中で念じていたが、スタート30秒前には声に出していた。奥の登りは先頭付近でクリアした。今年は登り始めてすぐローリング解除でペースが速く、心臓と胃が破裂しそうだったけど何とか念願の先頭集団で。そして辺戸岬の登り返しでチェーン落ち停止。普段の練習会ではああいった登り返しは、皆アウターのままガン踏みで超えていく。レースでも当然そうだろうと思っていたら、先頭は皆インナーに落としクルクル。仕方なくインナーでクリアして、頂上でアウターに変速したらハンガー側にチェーンが落ちた。気が狂いそうだった。せっかく先頭でクリアしたのに、何てツイテないんだと自分を呪った。いくつも集団が行ったので、この時点で完走目標に切り替えざるを得ないと覚悟した。
海岸沿いを遅れた少人数で飛ばした。ここでこんな脚使う馬鹿はいないよなと思いながら懸命にローテーション。やがて前方に大きな集団が見えた。隣の方が、”あれ先頭だぞ!” と叫んだが、”いやいや、そんなはずないですわ” と返しながらも、もしそうだったらと、懸命に黄色いジャージ2名を探していた。黄色いジャージが2つ見えたらそれは先頭の証し。そうU佐美選手とF谷選手のまんまジャージ。下りカーブに差し掛かり、集団全体を俯瞰できるところで先頭付近に黄色いジャージが見えた。神様ありがとう、別府選手ありがとうと真剣に思った。でもそこまでで脚を使っていた。集団に復帰した後も、与那で出遅れないよう無理に前方に出たりもした。普久川の登りは当初の目論見より随分早く千切れ、N川さんにもかわされた。その後は上述の通り・・・。



■お世話になりました
今回少し贅沢をした。オクマへは寄らず、名護のホテルから辺戸岬までタクシーで行った。人一倍緊張しぃの自分は、レース当日の朝、周囲や行程が慌ただしいと、しなければならない事を必ずし忘れる。だから本当に良かった。気持ちをゆっくり落ち着けて準備進行できた。
昨年夏の試走の時にお世話になったNHさん辺戸岬駐車場で降ろしてもらい、誰もいないベンチでゆっくり補給食を食べ、ボトルの準備をし、心の準備をし、登りを逆走してスタート地点へ下った。自転車も一緒だから、ホテルで空気を入れ、空気入れを持たずに来れる。8月申し込みが終わってすぐに電話してお願いしておいた。本当に優しい人で、全く緊張せずいい時間を過ごせた。ありがたかった。来年もお世話になりたいのでどうかお元気で、と連絡しておいた。



■結構心配


これやばいですね。塗装だけで済まないような、そんな気が・・・。あとチェーンは値段的にまだしも、リアメカが心配。



■来年もよろしく

いきなりそれなりの結果を出しちゃった軍曹。ライバルとは言えないけど、目標として崇めさせていただきます。





一緒に行ってくれた家族に感謝しています。



駄文、長文をお読みいただき誠に有難うございました。
練習仲間の皆さん、また一年間どうぞよろしくお願いいたします。さらに揉んでくださいっ!



あ、これからしばらくはマラソンランナーに変装いたします。昨年暮れからランをやったことは効果がありました。膝、足首の関節、そしてふくらはぎが強くなり、苦しくなってからも強く踏めるようになりました。
今年もまたこれからランに取り組みます。
堤防その他でトボトボ走る親父をお見かけの際には、どうぞいたぶってやってください。